相手の気持ち
青春時代にいじめに遭うことは、誰にも起こりえることだと思います。
私自身中学2年生で酷い無視や言葉の暴力、あだ名などいじめに悩まされましたが、今でも何で自分がいじめられなければならなかったのか、よくわかりません。
何となく目立つ、人と違うといったことだけでもいじめの標的になることがありますし、ちょっとコミュニケーションの仕方が下手な場合などで、何となく疎ましがられるなんてことからいじめに発展することもあるようです。
ではどうして当人だけではなく、周りの関係のない人たちまでいじめに加担してくるんでしょうか。
いじめられている人を無視するなどしている周りの生徒たちは、いじめている感覚は極めて低いと思います。
ただ口をきかないだけ、目をあわさないだけですから、罪悪感もほとんどないのではないでしょうか。
しかし、「無視」というものを、されている者はどういった感覚になるのか。
教室に入っても、それまで騒がしく談笑していた雰囲気が一変して静まり返り、こそこそ話ばかりでこちらを見なくなるんです。
「無視」というのは「いない」という認識になってしまいますので、いじめられている人は「消された」状態になってしまうのです。
存在を認めないのですから、これは本当にされている側は耐え難いものなんですね。
でもいじめている側はそれほどのことをしていると思っていませんし、何ならいじめていない、と言い張るかもしれません。
こういったことやもっと酷いいじめに遭ってしまい、自ら命を絶つ子供が未だにとても多いですが、これだけは本当に辛くても、やってはいけません。
いじめている側が、原因がどうであれ圧倒的に悪いのに、どうしていじめられている側が可能性を絶ってしまうのか。
しかし中学生くらいの子供の感覚では、安易に自殺などを想像してしまうことも仕方がない部分もあります。
今の苦しみに比べたら、死んだらどんなに楽だろう…なんて考えてしまうんですね。
いじめって「死ぬほど辛い」んです。
「死ぬ」ってとても重いことなのに、それほど辛い気持ちでいることにどうして気付こうとしないのか。
それは自分がいじめられなきゃいい、自分だけ助かろう、自分さえ良ければ他がどうなっても知らないといった、自分のことだけを考える風潮が大きな原因のひとつになっているのではないかと思います。
すべての人たちが、相手の気持ちになって常に行動するならば、いじめなんていう事は起こらないはずですから。